ハピネッツファンは知っている!能代工業といすゞの栄光がバスケ王国秋田のルーツであることを!

スラムダンク聖地の証明

秋田がこんなにバスケに対して目が肥えて、ハピネッツに対して熱い応援を繰り広げるのにはわけがある。言わずと知れた、能代工業のバスケットの存在と、かつて実業団で、輝いていた、秋田いすゞ自動車バスケットチームである。いわばこの2チームの存在が、秋田のバスケ熱を確立させたといっても過言ではないだろう。

秋田いすゞバスケットの栄光とは

昭和30年に創部され、一地方都市の秋田の実業団チームで、当時のカテゴリーは日本リーグ2部。そして昭和59年、全日本バスケットボール選手権で2部のチームながらみごと優勝を果たすと、その後1部に昇格し、リーグ優勝6回、全日本選手権(オールジャパン)優勝6回の記憶に残る素晴らしい成績を収めているのです。その後はいすゞ自動車本社に移管されチーム名が「秋田いすゞ」から「いすゞ自動車」に変わり、秋田の名前が外されて「なんだかなー」感じてたのを覚えています。当時活躍した選手では、最近では元ハピネッツHCの中村和雄氏や元能代工業監督の加藤三彦氏がいます。
ラボン・ウイリアムス選手:昭和56年~57年:ケンタッキー大:2部ベスト5(15回)
ジャック・ギブンス選手:昭和57年~58年:ケンタッキー大:2部MVP(17回)、2部ベスト5(16、17回)、2部得点王(17回)
テッド・ヤング選手:昭和58年~平成2年:バンダービルト大:MVP(22回)、ベスト5(22回)得点王(19回)、リバウンド賞(18、19回)
引用https://namioka4967.web.fc2.com/foreign-player.html

1983年11月 – バスケットボール部が日本リーグ2部優勝。
1984年
1月 – 第59回全日本総合バスケットボール選手権大会で、バスケットボール部が優勝。日本リーグ2部チームでの優勝は史上初。
4月 – バスケットボール部が日本リーグ1部に昇格。
1986年
3月 – 第61回全日本総合バスケットボール選手権大会で、バスケットボール部が準優勝。
4月 – 複写機事業部を分離し、秋田富士オーエー(現在の富士フイルムBI秋田)を設立。
1987年
3月 – 第62回全日本総合バスケットボール選手権大会で、秋田いすゞ自動車バスケットボール部として最後の出場。
4月 – バスケットボール部をいすゞ自動車に移管。
https://www.wikiwand.com/ja/引用

能代工業バスケットの栄光

インターハイでは22回、国民体育大会では16回、その他冬の選抜をあわせ優勝回数58回としている高校バスケ界の超名門校です。またOBも多くのスター選手を排出していますし、B1,B2のコーチや監督に就任しています。
能代工業のバスケットと言えばもう、ご存じですよね?栃木ブレックス所属のレジェンド田臥選手が高校時代在籍し活躍していました。能代工業は県立高校ですので、全国から有望選手を獲得するというスタンスではなく、個人の判断で自ら「能代でやりたい」と希望し進学するというものでした。憧れの存在だったのですね。田臥選手在籍は前人未到の3年連続3冠の合計9冠を達成しています。三冠とは 1年間で「高校総体(インターハイ)」「国体」「全国高校選抜(ウィンターカップ)」の3大タイトルを制することです。能代は外国人留学生はいない日本人だけでのタイトルですぜ。(籠球(ろうきゅう)侍の記憶が正しければです。)


まるでマンガの世界のことをやってのけた能代工業のバスケット。もはや廃れることのない歴史に裏打ちされたバスケの土壌が秋田には根付いているのです。黄金時代があれば、間もなく時代の流れで、高校バスケット界も変化をしていきます。優勝から遠ざかり、不遇の時を耐えながらも最近では復活の兆しを予感させるべく、原点の走るバスケでよいパフォーマンスを発揮しています。「ルーズボールの支配」「スタミナ」「粘り強さ」という加藤廣志(かとう ひろし)氏の教えに回帰しています。

能代カップとは?B1ハピネッツの試合は?

インターハイ、国体、選抜に次ぐ「第四の全国大会」と呼ばれる「能代カップ」5月3日~5日までの連休期間中、国内外の強豪校を招待し、能代工高を含めた男子5チームのリーグ戦で優勝を争う。http://cup.noshirofan.jp/?page_id=24
そのバスケの街能代に、11月17、18とB1の試合が繰り広げられます。ハピネッツの相手は新潟アルビレックスBB。前節では2連敗しましたが、能代では絶対に負けられない試合です。18日(日)は能代工業高校VS東北学院大学のエキシビジョンゲームも開催します。


⇒それでも秋田ハピネッツファンはどうしてお金を払ってまで選手のプレーを見ようとするのか?